さて、医療の問題に戻る。専門医は大事。しかし専門医ばかりでは成り立たない医療もある。専門医偏重ともいえる現在の状況は、患者側および医療者側双方の合致した志向によりもたらされている。というのが今までの話。まずは患者側の専門医志向について。
「無痛文明論」(森岡正博 2003年)という考え方がある。現代文明論であり医療に限った論考ではない。しかし「痛」という身体的苦痛が表題にあるように、現在の医療崩壊の根本原因にも通じる捉え方だと思っている。科学は進歩した。快を得るため明るさのみを追い求め、美しく華やかで健康的で便利なものに生活は彩られた。「死」は日常から遠ざけられ、アンチエイジングという言葉で「老」は回避できるものと謳われた。苦痛は取り除かれるべきもの。たとえ「病」に侵されても、無痛文明を現実のものにする医学の進歩により、それは治癒できるに違いないと考える。「たとえ癌に侵されたり、老化であらゆる組織がボロボロになったとしても、発達した医学ならその苦痛を取り除いてくれるに違いない。最先端の医療知識を駆使する専門医なら何とかしてくれるに違いない。」医者になり30年足らずであるが、こんな志向の患者が多くなったように感じる。無痛文明の現在では、当然の流れだろう。そんな需要者側の欲求に応えるべく専門化は加速した。そして目覚ましい成果を上げた分野もあるが、「死に至る老い」に関しては、完全克服されることは決してない。いくら医学が進歩しようとも無くなることはない。それに対峙するためには、疾患の完全治癒を目指すのではなくあらゆる疾患から生じる苦痛を緩和し「老い」と共存させ、徐々に「死」を患者と患者家族に受容さすべく全人的に患者を診る総合診療医が必要となる。 しかし、専門特化した専門医にはそれができない。総合診療医と言われる分野はまだまだ貧弱だ。それゆえ高齢者医療は成り立っていない。
「限りない”身体的欲求”を追求することで”生命のよろこび”を感ずることができなくなっている」というのが、無痛文明論で投げかけられた問題点である。痛み・老い・死をなくすべきものとして拒否することなく、直視し受け入れていく姿勢を持つ患者が多くなれば、サービス提供側の医者の志向も変化するに違いない。
写真は数週間前の吉野川河川敷の菜の花。もう枯れてしまい、この週末にはさくらも散る。時間の流れは残酷だ。いくら美しくとも永遠には続かない。
0コメント