自由万歳
震災後、1年あまりは公務員として働いていた。その間、日本は混迷を続けていた。民主党のふがいない原発事故処理、銭の論理が横行する震災復興。石原都知事だとか維新の会などといった質の低い第三極の登場により、未来はさらに暗澹たるものになっていきつつあった。そういった時代を生き抜くための思想は何か?それを考えていた時、”自由万歳”という言葉に出会った。シャクゲバの精神を具現化していると思った。
まずはその導入部分。自由万歳の総論について述べている。
”自由万歳”の精神が損なわれている具体例として、私のフィールドである医療分野をあげている。地域医療再生には、”下からの医療再生”が必要といっている。
”自己反省、自己弁護”という項目もある。偉そうなことを述べて自分はいったいどうなのか考えると、恥ずかしい限り。自由万歳のブログを始めたころから、その悪しき傾向に拍車がかかり、今現在はどん底の状態だ。反省しきりの毎日である。
自由万歳の3編目。腐りがちな組織というものが健全性を保つためにも自由万歳の精神が必要である。
車で東北沿岸を南下し、喜多方市の弾正が原にゲバラを降臨させた。
自由万歳の4編目。”似非ニヒリスト”とダークな文章を書いている。当時JIM-NETの会報に投稿し却下された。当然である。ダークな言葉をあえて見せることはない。しかし、ダークなものも見つめなければ、言葉に力は産まれない。
チャップリンは独裁者の最後で有名な演説をしたが、その後に”殺人狂時代”というブラックな映画を作り不評をかった。チャップリンの”Fight for Liberty"には間違いなく力を感じる。これは彼がダークなものから目をそらさず、それを克己しようともがき続いていたからだと思う。
自由万歳の5編目。アベ自民が政権を取った。これ以降政治的発言が増え、この次のブログ”勝手に地方創生”に引き継いでいる。パヨクの嫌いな人は読まないほうがよい。
何とかファーストという言葉が流行り、自身の反対勢力を感情的に罵倒し、フェイクニュースだとまくしたて、気の弱い官僚に嘘のデータや改ざん文書を忖度させる。政治はますますお下劣になっている。情けないやら恥ずかしいやら。
自由万歳の6編目。当時問題になっていたいじめ問題に絡め、自由万歳の精神の大切さを述べている。
ブログで書いている(Fight for Liberty)が、現在問題になっている森友問題での財務官僚の対応にも”自由万歳”の精神が欠けている。コウムインは思想をもって行動してはならないのだろうが、質の悪い政治家ばかりの現在、どう行動すべきだろうか?
自由万歳の7編目。安倍政権となり、アベノミクスやらオリンピック誘致などの政策とそれに対する世間の反応などをみて、断崖絶壁に向かう狂った豚の群れというイメージが明瞭になってきた。それに抗うために、自由万歳の精神が必要なのだ。
自由万歳8編目。更新が途絶えがちになってきており、この次で終了となった。ここでは主として”人の生きる意味”について考察している。今財務省の森友問題決裁文書改ざんで苦い顔をさらけ出しているアソウ太郎君にも登場してもらっている。彼の生きる意味は何なのだろうか?少なくとも政治家としての価値は、安倍首相と同じくない。
自由万歳のブログを開始後に第2次安倍政権が誕生した。その政権自身とそれを選択した日本社会の軽薄さが嘆かわしかった。最後の方に引用しているが、筒井康隆の聖痕の言葉の中から、「仲良く和やかに滅びを受け入れ、静かに滅びに向かう」のも乙なものとも考えだしていた。
いや、それではやはりだめだ。私自身はそれでよくても次の世代に対して申し訳が立たない。滅びるかもしれない流れを認識しながら、それに抗い生き残る術を模索し続けていくことが現代のわれわれの責任だろう。そんなことを、このブログを閉めて約1年間考えていた。その一つの形として、次のブログ ”勝手に地方創生” に続いた。