articles

海外支援などして、何ができたか?問われると、何もたいした成果などないとしか言えない。自己満足だろうと言われれば、そのとおりとしか答えられない。しかし、何も成果を上げることのみが意義あるものではないと、負けず嫌いの私は思っている。ここでは、客観的な資料として、新聞記事などで採り上げられたものなど一覧にしておく。

1999年私の最初の海外支援のレポート。私はオーストラリア滞在中であったため会見には出席せず。

JVCでアフガン難民調査に赴いた後の報告会

”生きる” 大仰なタイトル。当時38歳。まだまだ青い。

WHOのコソボ家庭医再教育プログラムのチューターとして働いた。英語力不足から、ほとんど名目だけの実のない仕事だった。苦い思い出だ。

コソボの活動で唯一誇れるもの。学術的には意味はない。しかし私をサポートしてくれていたアフリム医師にこの仕事をしてもらったことに意味がある。彼がこの経験を生かしてくれているだろうか?

この記事が一番気に入っている。取材してくださり、ありがとうございました。たいした成果もなく無意味であろう私の活動に、実証しようのないことではあるが違った意義を見出してくれている。

これらはいずれもイラクの劣化ウラン問題に関する記事。かなりセンセーショナルに報道されてしまった。

バグダッドで国連機関に対するテロが起きた。私が6月にインタビューしたUNICEFの事務官も巻き添えで亡くなった。今に至るまでバグダッドはまだ安全とは言えない。

イラクの現状を医学的見地からレポートしたもの。グローバリズム時代の医師の社会責任などと、偉そうなことを言っている。

イラクでの日本人拉致事件を受けての記事。世間では、自己責任との非難が広がった。自己責任という言葉は今の小池都知事が言い出した言葉らしい。

積極的に文句を言っていたわけではないのだが、新聞社の方から「注文つけてください」と言われての記事。

2005年から正式にJIM-NETに参加しイラク支援に関わりだした。まだまだ復興が見えない時期のレポート

これが私のイラクの仕事で、社会的評価の高いものだろう。岩波の「世界」でのレポート。

それなりに地域でも発言をしていた。イブラヒムの初来日。県南の海に連れて行った。

JIM-NETの参加団体の一つ、カタログハウス社の記事。時間が経ち、イラク報道は少なくなり、人は遠い世界のことなど忘れてしまう。

イラク支援は今も継続しているのだが、年1回の学術的な集まりへの参加のみとなり、記事になるようなことはなくなった。その代り福島支援での地元紙の記事。Kさんはいたく喜んでくれた。うれしい。

上記新聞記事の後、四国放送のTVとラジオにそれぞれ出演。かっこいいことも言っているが、何を成したわけでもないのだから、いい気にならないように。