オウム幹部ら6人と松本智津夫が死刑にされた。死刑を報じるニュースの中である評論家が「彼らの犯罪を、社会のせいだとか言ってほしくない。人の命を大事にしない、誤った個人主義の結果だ」と述べていた。そうだろうか?オウムに入信した、いわゆる高学歴の人間というのは私と同世代の人たちが多い。大量殺人を犯した彼らの動機を、彼らの個人的な異常性・弱さ・迷いなどに帰結するだけでよいのだろうか?
「オウムの教義に反し、オウムの活動を邪魔する人たちをポアしてもいい」と松本智津夫は考えたわけで、その考えを彼のもとに集まった従順なイエスマンに指示した。そしてそれを無批判にイエスマンたちは実行したわけだ。みんなアイヒマンになっていたわけで、殺人までいかないまでも、よく似た構造は今の日本の政治行政にもたくさんある。それに抗うことができなかった個人の資質だけに罪があるのだろうか?
もちろん、抗うことのできない個人にも問題はある。それは確かで、それゆえ私は個人の覚醒を求め「自由万歳」などといっているわけであるが、社会・組織・宗教指導者あるいは内閣や行政の長たちのバカさ加減を無視し、無罪放免にしているわけではない。間違いなく社会にも問題があり、償うべき罪がある。「社会に罪はない」といって、アホな指導者が生き永らえる世界にはうんざりだ。
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