人生にいくらかの意義を見出そうと、志をもって事にあたりそれを成就させようと人はもがく。仕事を離れる人もいよう。志をもって事をはじめ、運よくそこに道が開けたとする。その道を自身が突き進んで行ければよいだろううが、志半ばで倒れる人もいる。しかしたとえ自身で成就できなくともその道が普遍的価値を実現するものであれば、必ずや次の世代がその道を分け入っていく。そしてその道はついには何処かへ達する。そこは普遍的価値が現実のものとなったところだ。そうなれば、志事は使事に昇華する。ここで”使”の意味をどう解釈するかだが、オリジナルでどう説明されているのか私は知らない。私の解釈では、普遍的価値が実現したところとは神の領域だ。つまり、志事として世のため人のためを考え自分の志に基づいての行動が、神の意思の実現となり神様の使者としての仕事(使事)を果たすことになる。
少々神がかったことを言っている。私は無神論者であり宗教家ではないが、志事から使事に昇華されることで生きる意味を見出す心の流れは理解できる。志は元は個人的な思考でしかない。正しいのか実現できるのか不安である。しかしそれを追求していくことが絶対的存在である神のお役に立つと確信をもった時、自身の生きる意味を理解する。それだけではない。限りある命でいずれは消え去るしかなく思考も行動も限りある我々人間であるが、無限で永遠の存在である神の一部となったことを確信できた時、それは自身の枠を超えた存在となることであり、すなわち自由を得たことになる。
写真は恐山。あの世につながっているらしい。
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