さて、2月21日に「長兄のこと」として、父親に潰されてしまった長兄のことを書いた。自分はどうだったのだというお話。
私は小学2年から中学卒業するまで実家から離れて療養所で過ごしていた。父親からは距離をおき接触時間が短かったため、長兄ほど毒に晒されることはなかった。幼いころににまったく叱られたことがないわけではない。厳しくしかられた記憶は一つ二つはある。しかしそれは虐待とは言えない程度のものだった。実家から離れていた間、年間30日程度は実家で過ごしていたから、当時小学生であった私も家の変化にはうすうすは気づいていた。父が長兄に厳しいこと、長兄が父親を嫌い家族団欒から離れたがっていること、次兄が長兄の暴力に耐えていること、父親と長兄の間で母親が何とか緩衝材になろうとしていたこと。それらはなんとなく感じていた。私が小学6年の夏休み、皆で徳島の剣山に昇った。最期の家族旅行だった。その時に少しばかりのトラブルがあった。長兄が短時間ではあったが単独行動をし行方が分からなくなったのだ。戻ってきた長兄を父親は叱り母親はかばった。そしてその夜母親は泣いて父親を非難していた。私の記憶の中ではいつも笑顔で楽しそうな母親しかいないのだが、唯一の涙声の母親の記憶だから強く印象に残っている。その夏休みが終わった時に、母親にがんが見つかった。すでに進行した卵巣がんであり2か月余りの闘病で死んでしまった。写真は最後の家族旅行の写真。元気だった母さんの最後の写真。父親がとっているため長兄はそっぽを向いている。
父親の毒から長兄を守っていた母の死は、高校1年であった長兄にとって酷な事だった。以降長兄は閉じこもった。長兄は閉じ籠り父とは会話しなかったのだが、中学生の私が実家に滞在中はそれなりに会話していた。軽くいじめられたこともあるが一方でこんな思い出もある。私は喘息もちで、実家に帰ると必ずと言っていいほど1-2日後には喘息発作が出ていた。そんな時、普段は自室に閉じこもっている長兄がでてきて、夜中にウトウトしながらも私の背中をさすってくれた。翌日の朝早く療養所へ帰るとなった時、遅くまで寝ているのが常である長兄が実家の2階から父の運転する車に乗り込む私を心配そうにじっと見ていた。長兄は私には優しかったのだ。
私が中学を出て実家に戻った時、既に長兄は実家を出ていた。私は父と後妻さんとの生活が3年(うち1年は次兄もいた)ほどあったのだが、成績がそこそこだったからだろうか、父にそれほど叱られた記憶はない。何かと押しつけがましいところはあった。だがすでにそれを拒否したり無視することができる程度に成長していたため、毒親というほどの害を被ることはなかった。ただ、長兄と父との関係を分かっていたし父には後妻さんがいたから、打ち解けて父と会話することはなかった。家族団欒を拒否し半閉じ籠り状態で、本を読んだり深夜ラヂオを聞いたりの孤独を楽しんでいた。
長々と書いてしまった。まとめると私にとって父は毒親ではなかった。だから恨んだりはしていない。かといって尊敬できる存在でもなかった。もともと喘息で孤独感を感じていた私をさらに孤独が好きな人間に仕上げてくれた存在だ。一般的には幸せな父子関係とは言えないが、私にとっては貴重な経験であり父がいたからこそ今の私がある。親ガチャといって否定する気はない。あるべきものだったと思っている。
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