人の生きる意味(1)してはいけないこと


では、”自然科学者”という特殊条件を取っ払って”人”に一般化して生きる意味を考えてみる。”人”という存在は、長い歴史の中・無限の宇宙の中ではとるに足らないちっぽけな存在であることは間違いない。ちっぽけ過ぎて、自分一人などいなかったとしても世界に何ら影響はなく、生きる意味などないんだと思うのは普通だろう。10歳くらいから20歳くらいまで私もそう思っていた。そんな人生の不条理の解決法としては、意味のない世界にオサラバするために自死を選ぶか、あるいは自身の存在に何らかの意味付けをするために神を信じるか、二つの選択肢がある。しかしそうはしなかった。それほど真剣ではなかったためであろうが、どちらの選択もなんだか負けと認めるようで嫌だったからだ。結果として、Kさんという伴侶を得て楽しく過ごせている。今日だってソファーでグダグダしながらも穏やかに過ごしているのだから、どちらも選らばなかったのは正解だったと言える。

では私は不条理な世界の中で生きることに、どういう意味付けをしているのだろうか?一人一人の人間はブロックの一つにしかすぎないのだが、人類全体できっと何かを築き上げようとしているのだろうと思っている。何を築こうとしているのか?と問われても明確には答えられない。何を築こうとしてるのか判ってないのだから、どうやれば自分はそこに貢献できるのかも判るはずもない。結果として何も判ってないのだが、いろんな分野でいろんな貢献の仕方があるだろうと思っている。先に挙げた自然科学であったり芸術・哲学といった学術的なものはもちろん、日々の暮らしを維持するなかで培われてきた様々な知恵を発展さすこと、何も発展させなくとも維持するだけでもよい。子供を育て子孫を増やすことだってそうだと思う。自然科学者の場合と同じく、ちっぽけではあっても確実に紛い物でないブロックを積み上げることができれば、それはどんなものでも価値がある。そして人類の一ブロックとして存在する自分を少しは感じられ、生きることの無意味さを克服できるのではないだろうか?けど、じゃあ具体的に何をすべきか?と聞かれても確固としたものは言えない。ただ自然科学者と同様、紛い物のブロックにならないよう絶対にやってはいけない行動がある。紛い物のブロックになり、人類が高みに達するのを閉ざしてしまうやってはいけない行為は、図に示したようにたくさんある。

シャクゲバ

シャクゲバ=尺八を吹くゲバラ。この世の中を生き抜くには、この姿が必要と思いこの名前にした。日々感じることなどつづっていく予定。

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