車は修理中。どうやら60万円を越える修理代がいるようだ。昔ならバンパー交換だけで済んだような事故だったのだが、安全装置がハイテク化された分高額になった。今は台車で走っている。ハードディスクの音楽は聞けないため、NHKラジオを聞きながら走っている。今日は萩原朔太郎のラヂオ漫談からの朗読だった。引用する。
音楽の芸術的意義は何であらうか。僕にはむつかしいことはわからないが、とにかく、僕等が音楽をきく目的は、美しい旋律や和声からして、快よい陶酔と恍惚とを求めるのだ。決して「芸術的威権の気分」を味わふためではない。然るに音楽会情調といふ奴は、実に芸術の崇高的厳粛性を漂はして、気分的に強制してくるのだ。その為に僕等は悪くかたくなり、へんに重苦しい気分となつてしまつて、少しも音楽的陶酔の快よい境地に浸れない。これは日本の聴衆が、真に「好き」から音楽会に行くのでなく、一種の妙な芸術的意識で、或は文化的虚栄心で、七むづかしい気分を持つて行くからだ。そしてこの悪風潮は、上野音楽学校などの官僚趣味が、一方で少なからず養成したものだ。人々は音楽に対して、もつと楽なフリーの見解をもつて好いのだ。日本で真に音楽の解つてゐる人々は、あの演奏会に集まるハイカラの青年や淑女でなく、実は市井でハーモニカを吹いてる商店の小僧たちである。日本における西洋音楽の健全な将来は、あの小僧たちの成長した未来にある。もしくは浅草のオペラにあつまる民衆の中にある。彼等だけが、本当に音楽をエンジヨイし、音楽の本質を完全に知つてゐるのだ。文化主義的音楽愛好家などは、時代のキザな流行熱で鹿鳴館時代のハイカラの如く、何の根柢もありはしない。
医療の社会的意義とは?、あるいは政治家の存在意義とは?とテーマを替えて、一文書けそうだ。
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