参列者が1300人以上と発表されているが、おそらく葬儀会場に入れたのがそれくらいで、実際は会場に入れない人たちが路上に溢れていた。多分5000人位はいたと思われた。
中村さんにお会いした2001年頃の私は、チモールとパレスチナの支援を経験したばかりでまだまだペイペイであった。医者になったばかりの頃、派手な救急医療は好きであった。その延長で、海外医療支援というものにあこがれて足を踏み出して1年ほど経過していたのだが、なんとなく医療支援というものに疑問を持ちはじめていた。医療支援、特に緊急医療支援という対症療法は意味があるのか?自己満足じゃないのか?と思い始めていた。もちろん医者でないとできない仕事がある。震災などの自然災害直後などは、医者が1人いくことで救える命があるかもしれない。けど、貧困や紛争が原因で生じた難民支援では、一人の医者を派遣するより前にすべきことがあるのでは?根本的に彼らの生活を安定化さす方策がなければ焼け石に水だ、と感じるようになっていた。
写真は2001年11月、ペシャワール会がハンセン病の旗艦病院としてペシャワールに開いた病院内の装具の工房。元患者が技師として、装具の調整を行っていた。中村哲さんは、私がお会いした頃は既に井戸堀を始めていた。2000年の干魃で瀕死の状態のアフガンの人達を空爆するなど愚かなことは止めろと国会で言っていた。
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