寛容のパラドックス

前項の最後に、「寛容になり、排除する言葉を拒否すること」と書いた。矛盾している。オーストリア出身の哲学者、カール・ポパーは、「もし社会が無制限に寛容であるならば、その社会は最終的には不寛容な人々によって寛容性が奪われるか、寛容性は破壊される」とした。寛容のパラドックスだ。その通りだと思う。悪貨は良貨を駆逐する。だから、寛容な社会を維持するためには不寛容さを必要悪として受け入れざるを得ない。排除する言葉に対しては不寛容であることも必要だ。何をどのレベルで不寛容になるか、その対象と閾値の設定はよくよく考えねばならない。言論の自由や人権問題とも関連してくる。思想の正当性や攻撃性を加味して慎重に判断すべきことだろう。煽られて乗せられるのではなく、自分の頭で考え判断すべきことだ。

例えば、部落・人種差別を是とする思想の人たちがいたとする。その排他的思想をもって対象者を実際に迫害したなら、その人物や団体は社会から排除されてよいだろう。しかし実行することなく、差別思想をもつのみだった場合どうだろうか?これに罰則を与えるのは、思想・言論の自由を侵し思想統制に繋がりかねない。つまり、差別思想の実行は時に力をもってでも排除すべきだが、思想を持つこと自体は排除できない。

もう一つ、池田小事件の宅◯守だとか、先日全裸で走り回りひき逃げや塾に乱入した男が犯したような事件について。薬物中毒や精神疾患あるいは性格異常がベースにあり、何らかの事件を起こしそうな人物がいたとする。その人物を野放しにするのではなく、事件を起こす前に予防的拘禁や監視下におく措置を求める声を聞く。そうすれば社会の安心は得られる。だが当然ながら基本的人権にかかわってくる。慎重に判断すべきことだ。質の悪い政権は基本的人権を無視する。ナチ政権下では共産主義者は逮捕拘禁された。性的マイノリティや精神疾患患者は最終解決の対象になった。日本だって大逆事件があったし、大戦中は特高による不当逮捕は数多くあっただろう。「今の日本でそんなことは生じない」と、言う人がいるかもしれないが私は信じることはできない。扇動された人たちは基本的人権を軽視しがちだ。権力機構が煽られた人々の声を利用し、権力に都合の良い予防的拘束や監視をする可能性は十分にある。どういった場合には基本的人権を侵してもよいのか、煽られることなく冷静に考えておく必要がある。煽られ乗せられて、あとで「何も知らなかった」というのは無責任だ。

今イスラエルでは、令状なしに治安維持を理由にイスラエル兵が好き勝手に多数のパレスチナ人を行政拘束している。ユダヤ人であるカール・ポパーはどう思うだろうか?

シャクゲバ

シャクゲバ=尺八を吹くゲバラ。この世の中を生き抜くには、この姿が必要と思いこの名前にした。日々感じることなどつづっていく予定。

0コメント

  • 1000 / 1000