雑草という草はないき

昨日朝ドラが最終回だった。なかなかよかった。このドラマには大きく二つのテーマがあったと私は感じている。一つは表題にあげた平等思想、価値のない人などいないんだという考え。牧野富太郎は「雑草という草はないんですよ。 どの草にも名前はあるのです。 どの植物にも名前があって、それぞれ自分の好きな場所を選んで生を営んでいるんです」と言ったそうだ。その思想は朝ドラの中では、幼少期から東京に出てきて長屋に住むまでの間で多く語られていた。商売人の子供である彼が武家の子供たちと一緒に学ぶところから始まり、自由民権運動活動家との出会い、大学植物学教室で田辺教授からの仕打ち、また長屋で生きる人たちとの交流などである。

万太郎は天才であり、いくら社会に踏みにじられようとその才で立ち上がることができる。うむを言わさず社会に自分の存在価値を知らしめることができ、社会から唯一無二の人物と評価され歴史にも名を残すことができる。しかし市井の人たちにはそういった秀でた才はない。何かを成し遂げることもなく、ただ生まれ暮らし死んでいく。それは雑草と同じで下等で意味がない、というのは違う。たとえきれいな花を咲かすことができない雑草と呼ばれる植物にもその生きている意味がある。生きる価値がある。脚本家はそれを表現したいがために、万太郎とかかわる一人一人の描写を丁寧に描いたのだろう。大学の教授や助教授。同僚の面々、長屋で貧乏暮らしを生きる方々。単なる通りすがりの人物としてではなく、その背景がうかがい知れるような描き方をしていた。ただ、万太郎に資金提供をした鉄道屋や神戸の資産家はスルッと通り過ぎた。

牧野富太郎の言葉は、フェデリコ・フェリーニの「道」で綱渡りの男がジェルソミーナに語り掛けるセリフと同じだ。「この世で役に立たないものはなにひとつない。この足下の石ですら大きな大きな意味があるんだから…」

シャクゲバ

シャクゲバ=尺八を吹くゲバラ。この世の中を生き抜くには、この姿が必要と思いこの名前にした。日々感じることなどつづっていく予定。

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