さて、流浪の生活も昨日で終了。本日から仕事はじめとなった。で、いきなり患者が急変し死亡診断書を書いた。年明けには66歳の従姉が亡くなり、昨日はお通夜に行った。今年一年大変そうだ。さて、昨年の振り返りの続きで個人的なことを離れて、民主主義をキーに世界情勢について考える。
世界をみると、民主的とは言えない事例に溢れている。習近平体制を批判した垂れ幕に「奴隷ではなく市民でありたい」という叫びがあった。北のショウグン様の国は述べるに値しない。ミャンマーは報道されなくなったが、状況は変わっていないようだ。ロシアはプーチンという独裁者の妄想に翻弄され、ロシア・ウクライナ両国民は駒として扱われ殺しあいを続けている。国際社会は愚かな殺戮と破壊行為を止めさせることが出来ず、手をこまねいているばかりだ。ウクライナ問題をどう鎮静化するかは難しい。民主的手法では限界がある。いずれプーチンの失脚により収まるのだろうが、それまでいかほどの人命が失われ、いかほどの人々の暮らしが乱されるのか?
世界は人々を征服することなく誰も奴隷として扱わない民主的世界を構築できるだろうか?できないだろうと私は思っている。民主的社会は、豊かさが持続する余裕のある状態でないと構築できない。飢えと貧困と紛争にまみれた状況では、人々の心は荒む。理性をもって利他的判断は難しい。自分に苦難を与えている元凶にむけての怒りが勝る。今のウクライナなどはその典型だろう。ウクライナ国民にはロシアに対する怒りと復讐の想いが強く、あるいは国を守るための正義を求める声も強いに違いない。その同調圧力は強烈で、それに抗って反戦や平和的解決を口に出すことは難しいだろう。中にはたとえ正義の鉄槌が下せなくとも、あるいは相手にいくらかの譲歩をしてでも殺し合いを避けたい思いの方もいるだろうが、その声は主流とはなりえない。民主主義的手法では声が大きく暴力的な主張が勝利する。結果として、鉄砲玉型・正常バイアス型・無責任型などの組織人(勝手に地方創生 3編目参照)により非合理的権威が形成され、人々は自律的あるいは他動的に国の駒となり、国が国民を征服し家来として扱う戦争が継続される。つまり民主的手法により民主主義の根本思想に反した状態に陥る。
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