ネブラスカから”闇”というカテゴリーで書いている。ちょうど10年前、福島に診療支援に通いだしたときに津波被災地の闇を見るために、久慈から南相馬まで自動車で下った。”自由万歳”の4編目に詳細は書いている。同じようなことをまた書いている。同じことの繰り返しだ。で、闇を見詰めた結果、文字にできるような確固とした思想があるのかと問われても、返答に窮する。まったく進歩のない人間だ。思えば、物心ついたころから闇を見詰めていた。一番初めのブログに書いたと思う。夜間に喘息発作の苦しみに耐えるため、ただひたすら息をすることに集中しながら、なぜこの苦しみに耐えねばならないんだ?苦しみに耐えても生きていかねばならない意味は何なのだ?と考えていた。未だもってわからない。
21日からKさんと津軽を旅した。岩木山の紅葉にKさんも喜んでいた。こういう一時の幸せがあれば、私の人生にも意味があると言えるのだろう。
さほどに太宰治を読み込んでいない私だが、22日は斜陽館にも行きその大きさに驚いた。そこで育ち、ひねくれた眼でこの世の中を見詰めた彼の人生を想うと、自虐的で破滅せざるを得なかった彼の人生の流れが理解できた。彼はものの本質を考え続け、自身が生まれ落ちた境遇との乖離に悩んでいたのだろう。と、こんなに簡単に総括すれば太宰ファンに叱られる。
「僕は今まで、説教されて改心したことが、まだ一度もない。説教している人を偉いなあと思ったことも、まだ一度もない。」(正義と微笑)数編前で反省はしないと言い切った私は太宰のこの言葉、好きだ。
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