9/28日付の東京新聞の記事によると、戦後に内閣が関与した首相経験者の葬儀12例のうち、安倍氏の国葬の参列者数は9番目で4000人くらいだったそうだ。参列者が最も多かったのは、1988年の三木武夫の約6700人。次いで佐藤栄作の約6400人。国葬であった吉田茂が約6000人だったとのこと。以下はWikipediaから三木武夫の記事抜粋。
一貫して派閥の寄せ集め状態の自民党の体質からの脱却、党の近代化を訴え、時の政権、党執行部とも衝突を繰り返した。1974年、田中角栄の金権政治が暴露され田中が失脚すると、三木の「クリーンさ」が田中と対照的で有権者受けするとみなされて、首相に擁立される。周囲は田中の「金権」イメージ一掃のための中継ぎの予定であったが、三木は政治改革を行おうとして田中やその後継の大平正芳らと対立、自民党は分裂・下野寸前に陥る。結局第34回衆議院議員総選挙で自民党は過半数割れの惨敗を喫す。三木は保革伯仲国会を招いた責任をとって在任2年で退陣、自民党は70年代後半の混迷期に入る。
以降も一貫して政治改革を訴えるとともに、晩年は中曽根康弘の軍拡路線に反旗を翻すなど、世界平和に向けた活動も行った。最晩年の2年ほどは、病で政治活動もままならなかった。1988年(昭和63年)11月14日、81歳で死去。
大政翼賛会や田中角栄などの大勢力と対立し、一貫して小規模の政党・派閥を渡り歩きながら首相にまで上り詰めたため、バルカン政治家の代表格とされる。
自民党ではあるが、筋のとおった我が郷土の誇りである。声が渋かった。写真だけで、安倍・麻生や近年のアホ面した政治家たちと違うのが判る。同じ政治家であるがまるで別の職業のように感じる。格が違う。
0コメント