自分の罪深さを感じている人は、罪を犯した人間に寛容になる。しかし自分に罪はないと考える人は、他人の罪が許せない。許せず排除することで解決しようとする。学校でのいじめを例に考えてみる。被害生徒への対処はここでは省いて、残ったクラスへの担任の向き合い方を単純化して極端な例を二つ挙げる。
A「皆さんよかったね。悪い奴がいなくなって。みんなは悪くないのよ。悪いのは全部彼(加害生徒)なんだからね。あんな奴のことは忘れて、みんなで仲良くやっていきましょうね」
B「彼(加害者に)にも悪いところはあったが、先生は彼を諭して彼の行動を変化させていくことができなかった。申し訳ない。彼を見捨てず、何とか彼を再び受け入れることができるよう考えていきたいと先生は思っている」
Aは単純明快で一番容易な対処法だが、欠点は加害生徒を排除し切り捨ててしまい、残った者たちの差別意識を正当化してしまう。一方Bは加害生徒を切り捨てることは避けられるが、「私たちは悪くない!先生は甘い!彼と一緒に勉強なんかしたくない!」といった不満だらけになる可能性が高く、PTAは絶対に受け入れないだろう。
原罪を感じない人は、罪を犯した人間を異形のものとして排除する。異形のものを排除すれば世界の安定が得られると思っている。自民党右派などその典型だろう。方法論としてはあり得る。しかし差別と分断を助長する点で過っており、安定を求めるためのスケープゴートは絶えることはない。と思うのだが、かといってどこまで寛容になれるのか?むつかしい。
原罪説を唱えるキリスト教が、磔刑に処せられたキリストを寛容の模範とするのはうなづける。マザームーン様では全然だめだ。
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