未来への責任(総論)

今日は11月29日。母の命日だ。もう47年になる。照ノ富士、尾崎豊の誕生日でもあり、Kさんと暮らし始めた日でもある。さて、立憲民主党の代表選がちかい。各地で立候補者の討論会が行われている。ここで、誇大妄想的に私が政治家になったと仮定し演説をぶってみる。少々長い。いくつかに分けてアップすると思う。まずは総論から。

我々が社会的活動をできるのは高々50年程度でありましょう。地球の歴史・人類の歴史の中ではとるに足らないちっぽけなものです。その50年ほどの社会活動の中で我々は何を求めて活動し、政治家は何を成すべきでしょうか?そこそこの経済力を得て、名を成さないまでも誹りを受けることなく、幸せな家族に囲まれて過ごせればと誰しも思うことでしょう。そういった自身の平穏な普通の生活を得たいという欲求は、正当なものです。しかしもしも、私自身の、あるいは家族の、あるいは身近な人たちの幸福を求めての今の我々の行動が、50年後100年後の未来世代にとって不幸をもたらすとしたらどうでしょうか?自分たちの幸せを求めての活動が、50年後の孫の世代に困難をもたらす原因となるならばどうすべきでしょうか?そんな遠い未来のことはわからない、問題解決は未来の世代に任せればよい、俺たちの幸福を追求して何が悪い、と思う人たちもいるでしょう。しかし私はそうは思いません。思えません。少なくとも政治家は思うべきではないと考えます。なぜなら我々には未来への責任があるからです。私の政治信条の核となるものを挙げるなら、それは「未来への責任」であります。未来といっても、2-3年先のすぐの未来ではありません。私が想定する未来とは、我々の孫から孫の孫くらいの世代が生きる50-100年ほどの未来であります。

もう少し言葉を足します。一人一人の人生はちっぽけなものです。いくら富を蓄財し名を成そうが、人類の歴史の中ではゴミみたいなものです。数十年もすれば私という人間が生きていたという事実など思い出す人はおらず、私という人間が生きていた証は誰も訪れることのない墓石に刻まれる名以外、跡形もなくなることでしょう。そんなちっぽけで消え去ってしまう運命である我々の人生の意味とは何なのでしょうか?多くの人が人生のいっとき、この哲学的問いに悩むことでしょう。私もその一人です。哲学書はもとより小説を読み、映画を観、音楽を聴き、海外に出かけ見聞を広め、医者として多くの命の終焉を見届けながら、人の生きる意味は何だろうか?問い続けてきました。しかし、いまだもってよくわかりません。人の生きる意味はこれだ!と言い切れるものに思い当ることが未だできていません。

しかし、これだけは言えます。意味を見出すのが難しい我々の人生ですが、50-100年後の世代に破滅をもたらすような生き方を我々がするならば、我々に生きる価値はない。そう私は断言します。我々の存在が未来世代の絶望のもとになるであれば、我々は存在すべきではない。我々自身の幸福を追求することが未来世代に苦難を与えるならば、今の我々が求める自分の幸福など無意味で捨て去るべきだ、と私は断言します。私の人生に意味があったと言い切れることがあるとするなら、それは未来への責任を果たしたときです。未来の世代に生きる力を与え、希望をもたらし、幸せをもたらす、そういった社会活動ができた時こそ私の人生には意味があった、そう言い切れることでしょう。

私の政治信条は、未来への責任を果たすことです。自分自身や今現在の特定の人々のためのみの幸福追求ではありません。50-100年後のいつか、どこかの、誰かのことを想い、彼らの生活に平和と安定と幸福をもたらす方策は何か?孫やその孫の世代が紛争や貧困・環境破壊といった苦難に苛まれないよう、その方策を考え続けることこそ今の政治家の義務だと思っております。

シャクゲバ

シャクゲバ=尺八を吹くゲバラ。この世の中を生き抜くには、この姿が必要と思いこの名前にした。日々感じることなどつづっていく予定。

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