今日は終戦の日。本土決戦・一億総玉砕のスローガンを掲げ、かつての日本政府は負け戦を続けた。東南アジアで撤退が続いたときに降伏をしておけば、沖縄戦や無差別爆撃・広島・長崎、満州でのソビエト参戦などなく犠牲者は半減できていただろう。パンデミック下でオリパラを中止できない今の政府も本質的に変わらない。言葉だけの深い反省と形だけの真摯な対応。大戦やイラク戦争、モリカケに桜を見る会、コロナ対策など、忖度まみれで検証を拒否してきた政府であるからそうなる。付けを支払うのは一般市民だ。
さて、”本質”というテーマに戻る。まずはオリンピックについて。コロナ禍でオリンピックを開く意義を問われて、政府関係者はスポーツの力だとか感動を見せてあげたいということを言っていた。しかしそれはオリンピックでなければならない理由にはならない。今やっている高校野球でも、総体だとか学校の運動会でもあてはまる。スポーツという枠を外せば、祭りだとか文化祭や何らかの発表会でも同様の体験ができる。だから、国際的な人流を増加させ感染リスクを高めるオリンピックをわざわざこのパンデミック期に行う理由にはならない。オリンピックより小規模で、局所的で感染拡大のリスクが高くなく、市井の人々に密接し日常を感じられるような催事を、感染状況をみながら徐々に拡大していくのが正解だろう。オリンピックにスポーツの力を求めるのは正解でも、それを今行う必要はなかった。
では、コロナ禍でもオリンピックをやらなければならない意味は何だろうか?残念ながら政治家だけでなくJOCや開閉会式を取り仕切った電通など、誰もオリンピックの開催意義を真剣に考えていなかったと思われる。多様性は言葉としては知っていたのだろうが、心から理解しその精神を表現しようとはしなかった。でなければ、JOCの会長を筆頭に辞退者が続出するような人選はしなかっただろうし、高校の文化祭の延長のような形だけ整った退屈極まりない開閉会式にはならなかっただろう。
ピクトグラムは面白かった。
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