岡山時代

写真は、病院と養護学校があったところ。すでに5年前には更地になっていた。病院・養護学校という狭い範囲ではあったが、私にとっては故郷・母校であり、更地に立って喪失感を感じた。津波で流された人たちの心境が理解できた。今どうなっているのかは見ていない。

幼少期に孤独と世の中の不条理を知った私は、ひねくれた高校生になっていた。斜に構え、自分の将来に夢を抱くようなことはなかった。高校卒業後の進路を問われても適当に答えるばかりで、目標を設定し志望校受験に向かって努力をすることなどせずに成り行きに任せていた。恋に勤しむこともなく、タモリやビートたけしの深夜ラジオを聞き、授業中は居眠りばかりしていた。高校3年の時に、体調を崩していた祖父に「お前がどこの大学に行くか楽しみだ」といわれ、ならば岡山大学であれば満足してくれるかなと思い理学部物理学科を受けたところ合格した。若干はアインシュタインにあこがれており、数学と物理の点数がよく二次試験で英語がなかったために選んだ大学だった。しかし入学して最初の2週間ほどで、自分には数学の才能はないことを自覚した。もともと強い希望をもって入学したわけではないので、努力し勉学を続けようという気は起こらず、ましてやバブル真っただ中で浮かれた世の中に飛び込むことなどしなかった。何をしたかというと昼過ぎに起きてパチンコ屋に行き、蛍の光が流れ出す閉店時間までパチンコを打ち、遅い夕食を食べて帰って明け方まで読書をするという毎日を送った。この時代読んだ本は、ドストエフスキー、サリンジャー、ヘッセ、ニーチェ、カミュ、サルトル、夏目漱石、石川達三、井上靖、井上ひさし、筒井康隆、遠藤周作などなど。種々雑多ではあったがいわゆる実存主義文学というやつが中心であった。明け方までそれを読み、ひと眠りした後タバコを咥え吸い込まれるばかりのパチンコ玉をみながら、人間の生きる意味は?など高尚なことを、死んだような生活の中で黙考する日々であった。

二年近くそんな毎日を繰り返し二十歳が間近になってきて、さすがにそんな毎日を続けるわけにはいかないと自覚した。そこで実存主義文学から影響を受けていた私は、「死をみなければ」と思いたった。生きる意味を理解するためには、その終わりであるを直視しそこに何らかの意味づけをせねばならない。を無に帰するものなのだろうか?の意味を単独で考え何らかの意味づけをしたとしても、それがにより無になってしまうものなら生きる意味は半減してしまう。どうせ死ぬんだから生きたって意味なんかねぇや、といったニヒリズムになってしまう。を全うさせ、死ぬことでさらにに輝きを与えるようなものでなければならない。

死をみるなら医者だろうと思い、医学部を受験し直すために二十歳の誕生日に岡山大学に退学届けを出した。

シャクゲバ

シャクゲバ=尺八を吹くゲバラ。この世の中を生き抜くには、この姿が必要と思いこの名前にした。日々感じることなどつづっていく予定。

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