平和で誰もが共存できる社会が理想なのはわかっている。けど、あいつらは俺たちの仕事を奪いとる。あいつらは町を汚して騒いで治安を乱す。あんな奴らを食わすために俺たちのお金を使ってほしくない。あいつらをここから追い出して、俺たちだけになれば住み心地は良くなる。俺たちのお金は無駄使いされなくて済む。
と思う人たちもいるだろう。否定できないかな、と思う事もある。移民問題とかはその典型だろう。移民の少ない日本でも問題を聞く。怪我や病で障害者になったり、高齢で寝たきりになるのもその一つだ。排除したい側からすれば、そういった存在は”社会の秩序”を乱す元凶であったり、生産性のない”非効率的”存在なのだろう。その人たちを排除すれば、排除する側にとって居心地のよい社会になるのかもしれない。それを主張する権利はあるだろう。権利はあるが、本人の意志ではなく、やむなくその境遇に陥った人々の存在を否定し排除するのは道徳的に受け入れ難い。それだけではなく根本的に”排除する”行為そのものに問題がある。
”排除する”ことを是とするなら、同時に”排除される”側になることに怯えながら生きていかねばならない。いつ自分が排除される側になるやもしれない。安心はできない。自分が排除されないよう周囲を気にし、自ら同調圧力を受け入れる。長きに巻かれできるだけ多数派に入り、自分にとって脅威となりそうな集団を積極的に排除し、安心を得ようとする。排除の恐怖が排除を生み、人々は蜘蛛の糸に縋り付き互いに蹴落としあう地獄絵図となる。その地獄から逃れるために社会がすべきことは、1)多様性を認め、異質のものを排除しようとしないこと。そして、2)どういう境遇になろうとも社会が手厚く面倒を見るという安心を与えること。この2つを人々に約束することだと思う。社会を分断させないために必須だろう。
不寛容で排除しようという扇動に乗っかってはならない。その不寛容はいずれ自らに向けられる。寛容になり、排除する言葉を拒否することだ。
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