人を裁く

チャラにしたい原罪から書いた3編のまとめみたいなもの。

人を裁き何らかの罰則を与えると必然的に人権侵害が生じる。だから人を裁くことには慎重でなければならない。原罪を感じておれば、自分に人を裁く権利があるのかどうか自問し安易に人を裁くことを自重できる。人を裁かずに済めばよいのだが、訴訟にならずとも組織内で何らかの裁定をし懲罰を与えねばならなかったり、懲罰を受けた人物にどう接するべきか迷うことはままある。学校でのいじめとか、会社などでのハラスメントなどそうであろう。軽い罪であれば罰則も軽いため簡単な吟味でよく当人を軽くいじっても許されようが、罪が大きくなれば罰則は人生を破綻さすものとなり、より慎重な対応が求められる。やむを得ず誰かを厳罰に処さなければならなくなったとき、どうするか?丁寧に真摯に誠実にそれを遂行せねばならないのは当然のことだろう。

刑事や民事裁判においては国家権力を後ろ盾にし、第三者機関である裁判所に裁定を任せることができる。そこでは原告と被告に分かれ、原告側は被告の罪を指摘しその過ちを糾弾する。被告側は訴えられた事実に誤認があれば否定する。あるいは罪を起こしてしまった社会的状況を訴え情状酌量を求める。その両者の言い分を吟味したうえで、第三者である裁判官が公明正大な判決を下す。公的裁判はこのシステムで公正さを保証できるのだが、組織内で独自の処罰を決定する場合はあやふやだろう。多くの場合、原告と被告には主従関係があり、懲罰を決定するのは権力をもった”主”の方である。原告側が裁定の主権を握っており、被告側の訴えは届かない偏向した裁定になりやすい。社会貢献も標榜する大企業などは調査・懲罰委員会を立ち上げ、そこに第三者的人材も登用することで体裁を整えようとはする。しかし、所詮権力側の機構が裁定を行うことに違いはない。よって裁判の形式をとったとしても、ミャンマーや香港の民主活動家に対する裁判のように、始めから結果が分かっている一方的な軍事裁判のようなものにしかならない。

原告(主)側が被告(従)側にいくら丁寧な言葉で優しい態度で接しようと、原告側である組織が自身の正義に疑問をもつことなく、被告側の訴えに耳を貸さず心情を理解しようとしないまま処罰を実行すれば、それは軍事法廷と同じく茶番でしかない。

シャクゲバ

シャクゲバ=尺八を吹くゲバラ。この世の中を生き抜くには、この姿が必要と思いこの名前にした。日々感じることなどつづっていく予定。

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