アクセルとブレーキの相対的な差により、社会的活動の活動性は決定される。アクセルが強く、それが暴走しない程度のブレーキが利くのが理想的だろう。しかし、社会的活動のアクセルとしてのやる気と必要性は経時的に低下し、ブレーキの役目となる効率性とリスクは相対的に高まっていく運命にある。何故か?これは以前のブログ(多分、自由万歳のなかで組織について述べた項)で既に書いたことだがもう一度書く。
例えば震災・津波とか紛争・難民とか、それが勃発した時は社会的関心は高く助けも必要であり多くの人がなんとかせねばと考える。が、時間の経過とともに関心は薄れ、必要性も低下するのは必然であろう。それだけではない。活動を長期に継続させるためには、活動の効率性を高め運営の透明性を確保し、リスクマネージメントしなければならない。往々にして活動の創始者というものはリスクや効率性など省みずイケイケドンドンで行動する傾向にあり、それを許せば経済的安定性を欠きリスクに直面し、組織は早晩崩壊する。だからやる気の暴走を阻止し、活動を安定的に継続させるためのブレーキ装置を組織は構築していく。それにより組織は安定し長期の活動が可能となるのだが、その結果新たな問題を抱えることになる。組織の肥大化と雇用者や受益者の増加である。そうなると、組織を運営するものは社会的活動の本質とは離れてとにかく組織を維持する義務?が生じてくる(図中の赤線)。社会的活動が主目的ではなく、組織を維持することが主目的となり、社会的活動の継続はその手段として用いられるようになる。
この場合どうすべきか?最も理想的なのは、活動の必要性はなくなっていることを周知し徐々に活動を縮小し終了していくことだと私は思う。だが、そうはならないことが多い。雇用の維持と受益者への体裁を保つために、とにかく組織を維持する方策がとられる。表面的で薄っぺらな心のこもらぬ言葉で既に低下した必要性を粉飾しやる気を鼓舞する。不祥事を出さないようにリスクマネージメントを強化する。赤字がでないようとにかく効率化しようとする。そうやって本質を外れ何のために存在しているのかわからぬ組織となる。ブルシット・ジョブならぬブルシット・オーガニゼーションの誕生だ。14年ほど前に、そういった組織に馴染めずおさらばした。
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