医療の本質

今まで、思い出すと思わず声を出してしまいそうになる若気の至りともいえる、思いあがった破廉恥なことをしてきた。18-40歳くらいまでそのような行動が多かったように思う。被害を被った方や周囲の方たちには申し訳ない次第だ。そんなことを思い出すたびに、謙虚におとなしく生きていかねば、と思う。といいながら、またまた大仰なタイトルをつけてしまった。自分にそんなものを述べる資格があるのだろうか?30年あまり医者として働いてきたのだから、少なくとも柔道や相撲よりは述べる資格はあるだろう。しかし医療行為でも色々反省すべきことが頭をよぎる。上から目線で話す資格は無いと思う。元々ブログを始めたきっかけは、2009年に当時の県の病院事業管理者の不誠実な嘘っぱちの医療政策に腹が立ったからだった。だから、医療云々に関しては最初のブログで散々書いた。写真はそのうちの一つである。もう10年以上前になり全てが正しくはなく多少は変化したものもあるが、基本的にはそこから私は(県の医療政策も?)成長していない。ここでは偉そうなことではなく、医者としての私が「やっちまったな」と反省すべき自分の恥を書く。
まずは、看取りについて。当直先で形式だけの血の通わない死亡確認をすることはままあった。まったく診察したことの無い患者さんで、家族の手厚い看護もなく老人病院で息を引き取る患者さん。そのような患者さんの死亡確認は極めて事務的で、記載不十分なカルテを見返しながら死因を適当に書き、形式だけのお見送りをすることはあった。患者さんが過ごしてきた生活や人格・人生に思いを馳せることはない。もちろん、最後のわずかな関係であっても患者さんの人生を尊重した接し方をすべきであるのだが、なかなかそれは難しい。できた人間でない私にはそれができない。以前のブログで、看取りの医療と言いながら当直医に最後の看取りを任せる医者をディスった。それは当直業務として看取りを行った場合、その多くは私と同様事務的な看取りをしてしまうだろうことが予想されたからだ。看取りの医療といって患者の人権を尊重するような奇特なことを提唱しながら、そのような人生の締めくくりを是とする矛盾を受け入れられなかった。これ以外に、看取りの時に明らかにこれは医者としてどうか?と反省すべき看取りが何度かあり、次からそれについて書く。と思う。



シャクゲバ

シャクゲバ=尺八を吹くゲバラ。この世の中を生き抜くには、この姿が必要と思いこの名前にした。日々感じることなどつづっていく予定。

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