で、オリンピックの本質は何だろうか?今回の開閉会式のコンセプトは多様性と調和であったと聞く。これは間違いでないだろう。そしてそれをもって達成されるのは、言い古された言葉であろうが ”平和(フランス語でPaix)” である。それはNHK大河ドラマの「いだてん」に描かれていた。写真は「いだてん」の中でも印象に残った仲野太賀の走り。終戦直後の混乱した満州で、志ん生の富久を聞いてうずうずと足踏みをしている時の彼の表情は絶品だった。彼の表情こそアスリートの美しさと力であり、それを無惨に破壊してしまうのが戦争。
コロナ禍で分断された世界に絆を取り戻すために、スポーツの力を示したいというのはあながち間違ってはいないと思う。しかし、アスリートファーストと言いながら炎天下の夏の東京で開催したり、うるさい宣伝カーに先導されたコロナ禍の被災地での聖火リレーはなんのためだろうか?女子サッカーの決勝がアメリカが敗れたことで、前日に日中ではなく夜に回されたのはお笑い種だ。金と政治の力に翻弄され本質を外れた愚かな東京モデル・レガシーを遺してしまった。開閉会式を取り仕切った方たちは誰も五輪の本質を理解していなかったのだろう。だから学祭レベルの演出になった。
言葉だけの復興五輪だとか、できもしないコロナに打ち勝った証としての五輪だとか言うのではなく原点に返るべきだった。格差拡大や中米の対立、パレスチナやイラク・ミャンマーやアフリカ諸国など貧困にあえぎ政情不安定な国々、ウイグルや香港・ベラルーシーやロシアなど独裁で圧制を強いられている人々。あからさまにそれらを表現することはできないだろうが、世界に溢れるそういった混乱に真摯に目を向け、平和の祭典としての五輪の精神を強く打ちだすべきだった。それならコロナが蔓延した東京でやってもやる価値はあり、世界は賞賛しただろう。しかしIOCはお金に執着し、JOCや日本政府・東京都は世界に目をやらず内向き志向で張りぼてに過ぎない日本をアピールするのに必死になりすぎた。そして五輪の精神は忘れさられた。次回の冬のオリンピックは北京である。本質からさらに外れてしまうだろう。
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