さて、なぜバリア(壁)は取り払わねばならないのか?政治家がなぜそれをしなければならないのか?について。
世の中には様々な人たちがいる。人種や職業・宗教はもちろんのこと家族構成・収入・趣味など種々雑多である。生きていくためには同じような人たちが集まったほうが快適に過ごせる。同じ信条や宗教をもち、価値観や感性を共にできたほうがトラブルは少なくなる。そういった集まりは数多くみられるだろう。それを否定しているわけではない。あってしかるべきものだ。しかし気をつけなければならないのはこういった共同体というものは、繋がりを強化しようと異質なものを排除する傾向にあることだ。また、一致団結を求めるがゆえ個人の自由意志での活動は制限され、人々は共同体の意思に従う駒としてのみ存在するようになる。典型例はナチスでありオウム真理教、大戦中の日本軍部などであろう。そういった共同体が政治権力をもち、その理念をそのまま遂行しようとすると問題が生じる。共同体が設定した壁をそのまま内政に適応すると壁からはじき出される人たちに重大な人権蹂躙が生じ、国際舞台では衝突が生じる。”アーリア民族共同体”を唱えたナチによるユダヤ人迫害、八紘一宇のスローガンを掲げてアジアを侵略した(解放したといっている人たちもいるが、結果は同じだ)日本軍など典型である。すなわち、壁を作って快適な環境の共同体を作ろうとするのは認められるべきだろうが、その共同体の理念(壁)をそのまま国という大きなシステムには適応できない。適応してはならないと私は考えている。
日本政治の貧困さはこれだろう。政党としてそこに集まる党員たちをコントロールするのと、政権与党となり国民をコントロールするのを同じ理念でしてもらっては困る。国会での政党と、内閣での政党は異なるものだ。イエスマンばかりで周囲を固め、自分を崇めるお友達ばかりを重用することは、一政党内にとどめておくなら許されようが、同じ態度で政治を司ってもらってはこまる。党員と国民は違うのだ。政党がもっている壁は党員には適応できても、国民には適応できない。適応してはならない。残念ながら、日本の政治家の多数がそれを認識できていない。与党だけではなく野党の議員にもこれは言える。政権が代わったとしても同じことが繰り返されるばかりだ。選挙で政治が決まり、茶番のような国会論議に終始する。選挙こそ命であり、大衆受けするマニュフェストづくりに必死になり、筋の通った崇高な政治理念など見受けられない。日本は茶番であふれている。
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