パレスチナでの不条理

パレスチナでははじめに2000年3月から2か月ほどガザに滞在した。仕事はガザ地区ハーンユニスのパレスチナ赤新月社の病院での診療支援だった。3時間程度、現地医師の外来診療を補佐するのみで、コーヒーを飲んでだべっているのみの意味のない仕事だった。天井のない監獄と呼ばれるガザで3食付きの眺めのよいホテル暮らしで、当時はまだ平和だったガザの街を暇に任せて一人でウロウロしていた。ここでも子供たちは元気で、珍しい日本人をみつけて集まってくることが度々あった。

その後ヨルダン川西岸地区に移り、イスラエルの植民地近くのビドゥ村診療所であまり意味のない診療支援に従事したのだが、パレスチナの現状は十分認識できた。住んでいたラマラとエルサレムやビドゥ村への移動では、必ずイスラエル軍の検問を通らねばならなかった。ヨルダン川西岸地区は国際法上はパレスチナの自治区であり、イスラエルは植民地を拡げてはならないはずであったのだが、次々に新しい植民地が建設され、その植民地の治安を名目にイスラエル軍が主要道路で検問を行っていた。小競り合いは頻発しており、そのたびごとに恣意的に検問所は封鎖されパレスチナ人の移動は不当に制限されていた。

私が西岸地区に滞在していた2000年9月末にアル・アクサ・インティファーダが始まった。小競り合いで済まずに暴力の応酬はエスカレートし、移動制限のため仕事ができず10月に帰国した。その後、自爆テロとイスラエルの報復爆撃の応酬で泥沼化していった。下の写真はまだ平和だったころ、ガザの私の滞在していたホテルを突然訪ねてきたガザの若者たち、数ヶ月後にガザの工科大学を卒業予定だと言っていた。インターネットが今ほど発達しておらず、彼らはしきりに日本の現状を尋ねてきた。ロボットが一般家庭で活躍しているのか?道路に信号が一つもないのは本当か?など、誇張された誤った情報なのだが、技術大国日本なら本当かも知れないと彼らは思い、私に確認しにきたのだった。日本でいえば、長崎に出向いて海外の状況を知りたがった維新の志士と同じ心持ちだろう。一方で、彼らはガザから出たことはないと言っていた。三人のうち二人は親類が反イスラエルの罪を犯したためにガザから出ることは許されないとも言っていた。しかしこの時点ではイスラエルとパレスチナの融和が進む希望も残っていたため、卒業したら是非日本あるいはドイツの自動車産業をみたいと目を輝かせていた。

しかし現実は不条理だ。彼らはガザに閉じ込められたままだろう。無事かどうかもわからない。イスラエルとの紛争により、彼らの夢は潰された。

シャクゲバ

シャクゲバ=尺八を吹くゲバラ。この世の中を生き抜くには、この姿が必要と思いこの名前にした。日々感じることなどつづっていく予定。

0コメント

  • 1000 / 1000