チモールでの不条理

この世の不条理を養護学校時代に認識したことを話した後、海外で経験した不条理を3つほど話した。まず私が初めて海外で医療活動を経験したチモール。1999年、東チモールのインドネシアからの独立を阻止しようと、インドネシア政府(イスラム国家)の息がかかった民兵たちがチモール島の西側から東チモールに入って暴れていた。西側社会は東チモール(カトリック教国)の独立を支持していたため、インドネシア政府の横暴を抑えるためにオーストラリアを中心とした多国籍軍が結成され東チモールに入った。戦場になった東チモールから家財道具を抱えて多くの東チモール人が西チモールに逃れてきており、私が当時所属したNGOはチモール島の西側から入り、西チモールに逃れた東チモール難民のキャンプでの医療活動を開始した。すでに、インドネシア政府によりいくつかのキャンプが設営され、そのうち3つのキャンプを回った。キャンプ環境は、インドネシア政府のプロパガンダもあったのだろうが比較的整えられていた。雨風をしのげるバラックやテントが建てられ、水と食事と最低限の医療は提供されていた。それほどの疲弊はなく子供たちは元気に暇を持て余しており、我々日本人が行くと、子供たちは初めて見る日本人の後をついて回っていた。そんなキャンプの中で私は、役に立ったとは思えない医療行為をして、時間が余れば能天気に尺八なんぞ吹いていた。

1週間程度の滞在で、私は初めての海外医療支援を経験できて満足であったのだが、チモールを離れてから、西チモールに逃れた東チモール難民の多くがインドネシア政府により強制移住させられていたことを知った。当時のUNHCR代表の緒方貞子さんがインドネシアにクレームをつけたが、何割かの東チモール難民は故郷に帰ることなく強制移住させられたそうだ。写真の笑顔の子供たちである。おそらくインドネシアの島々で農奴としてこき使われたのだろう。女の子たちは売春宿などに売られた子供もいるだろう。ただ東チモールに生まれたというだけで、彼らの現在は苦悩に満ちたものであるに違いない。ママゴトみたいな医療を提供し、尺八吹いて喜んでいた自分を恥じた。

シャクゲバ

シャクゲバ=尺八を吹くゲバラ。この世の中を生き抜くには、この姿が必要と思いこの名前にした。日々感じることなどつづっていく予定。

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